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ゆるす、ということ

昨日教会で、英語を教えてる高校男子が謝りに来た。
先週のレッスンに来るのを忘れていたから。
そのときの記事はこちら
床に手をついて謝ろうとしたので、逆に恐縮してしまった。
それにそこまで怒ってなかったし、私。

たとえひどく怒っていたとしても、土下座されてゆるせるかというとそうでもないと思う。ゆるすかどうかは、怒っている人、傷つけられた人の心が決めること。ゆるすことを決心できるかどうかは、謝罪の有無、謝罪の方法にはあまり関係ないものではないかと思う。

私はかなり前になるけど、当時の彼(=今の夫)にひどく怒りを感じたことがあった。そして「土下座して」と言ったことがあった

(あのときはごめん、Kirk)。そうすれば彼をゆるす心が芽生えて自分も楽になると思った。でも土下座されたからって怒りが収まるわけでもなかった。ゆるそう、っていう自分の意志がない限り、他人をゆるすことはできないんだと後々わかった。

とはいえ、ゆるしたからといって、傷つけられた傷が消え去るわけでも、そのときの嫌な記憶がなくなるわけでもない。結婚してから行ったセミナーで、目からウロコってことを聞いた。ゆるすということは、水に流すことではない。嫌な記憶を消し去ることではない。(っていうか、消えるわけがない。)ゆるすということは被害者側の決断であり、その決断に対して責任を負っていくこと。今後、過去の嫌な記憶がよみがえってきても、心の古傷が痛くなっても、その苦しみや痛みを自分が負っていく、そのことについて相手をもう一度責めたりしない、という決断と責任なのだ、と。

ゆるせずにいることもけっこうキツイしエネルギーも要るんだけど、被害者という立場は容易に正当化できるし、自己憐憫という一種の快感に浸れるということも事実。

ゆるせば楽になるかといえば、古傷の痛みを自分だけで負っていかなければならないわけで、意外とこっちのほうが大変かも。

それでも正しい行いをすることを選ぶなら、後者だろう。
特に私たちクリスチャンは、自分の罪の刑罰をイエス様に代わりに受けてもらっているのに、他人の罪をゆるさないわけにはいかない。他人から受けた傷が痛むとき、自分がイエス様に与えた傷はその何倍だったかと思えば、ぶりかえしてきた怒りを正当化したり、古傷の痛みに自己憐憫に浸ってる権利もなければ暇もない。イエス様を十字架につけた加害者として、日々悔い改めて、もっともっと神さまからの信頼を回復するように努めていかなければならないと思う。
by marthymarthy | 2007-07-23 10:07 | 十字架/cross


2007年に天に帰った母の闘病記がメインです


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